トロッタ通信 11-5



トロッタ通信 11-5


5 清道洋一さんの試み

■ 詩を解放する

トロッタ11のために清道洋一さんが採り上げてくださいました私の詩は、『いのち』です。この詩は、『詩の通信』の第I期、2006年7月7日(月)発行分の第18号に発表したものです。正直申し上げて、この詩が音楽になるとは予想していませんでした。第I期発行当時は「トロッタの会」を始めておらず楽曲化を想定、あるいは期待して、詩を書いてはいなかったからです。“詩唱”ではなく、ひとりで行う“朗読”は、心に期していました。そして、トロッタのように常に動こうしているグループにあって、もう4年前の詩に、清道さんが着目してくださるとも思いませんでした。
私の意識は、新作の詩を書くことに向いています。時に、例えば朗読の会があり、そこに参加するような場合は、過去の作品を振り返ることがあります。過去の作品に息吹を吹き込もうと思うからです。過去の作品も生きており、その時々で解釈、詠み方が異なります。ですから、清道さんが『いのち』に注目してくださったことも、詩は生きている観点からして、当然といえばいえるのですが。
『いのち』を書いた当時、私は『新宿に安土城が建つ』という作品を形にしようとしていました。二度目の演奏機会を迎えていたと思います。今思えば、この作品は私の歩みにおいて、画期的でした。また、演奏できればと思います。
その一方で、どんな詩を書けばいいか、どんな詩を書けるのか、模索していました。模索は今もしていますが、自分のスタイル、自分だけのスタイル、自分にしか書けないこと、自分が書きたいこと、自分がいちばん正直でいられる詩の世界、というようなことを考えていたと思います。そしてある詩人と会い、話をし、詩人が私にいってくださった、あることをもっとだと思い、あることに反発し、これまで書いた詩は全部捨てよといわれ、『いのち』以前の別の詩を送って、こういうものが詩ですといわれ、そして『いのち』を書くに至った、というようなことがありました。その模索期に書いた詩が、『いのち』です。
ですので、音楽になることとは別に、『いのち』には私なりの感慨を持っており、それを清道さんが採り上げてくださったことが、意外であり、うれしくもありました。(31回/2.10分 2.18アップ)
毎回、いろいろな趣向を凝らす清道さんですが、『いのち』もまた変わった曲になっています。 とはいえ、私は、彼が趣向のための趣向を求めているとは思っていません。趣向という言葉は便宜上、使いました。音の形、という表現がより正確であり、テーマとしての音の形ともいいたく、技法といってしまっていいかもしれません。
メールのやりとりはプライベートなものなので、さしさわりのないよう、手を入れながら書いてまいります。原文のままではありません。
清道さんから、こんなメールをいただいたのは、1月8日(火)のことでした。詩唱者として、トロッタ11に、中川博正さんにも御参加いただきたいてよいかという質問、皆さんに送った返信です。

〈『いのち』は、演奏者を含めて会場全体で“朗読”を試みる作品として構想しています。中川さんにも参加していただければと思います〉

続いて、清道さんは、チラシに載せるための、こんな曲解説を送ってくださいました。

〈「詩」を詩人から,詩唱から,音楽から解放し,自然な姿であろう個人が声に出して読み味わうということに着目してみた。
こうした個々の作業とは別に,木部与巴仁の詩「いのち」を共有し,詩唱が,音楽が,鑑賞者がそれぞれの立場で一堂に会することで,誰もが表現者となること,聴衆が不在となることを期待し,この場にいない不特定の聴衆あるいは鑑賞者へ向けてこの状況の発信を試みること,以上が創作意図である〉

『いのち』は、私の手を離れて自由になるようです。会場にいる方全員の共有物となるようです。誰もが表現者となるようです。聴衆は不在となり、演奏者のみが存在するようです。清道洋一さんのものですらなくなるのでしょう。(32回/2.11分 2.18アップ)
昨年末から、私はギターを習い始めました。今年の初夏、ある会で演奏する予定で、習おうと思ったのです。自分でギターを弾き、詩唱する。この発想は、私にとって画期的でしたが、残念ながら、この原稿を書いている時点で、企画は取りやめとなりました。しかし、ギターはギターで楽器として独立した奥深いものですし、ギターを弾きながら詩唱することに、私は意義を感じていますから、練習は続けてまいります。
私は、取りやめになった会で演奏する曲を、清道さんに書いていただけないか頼みました。彼は快諾してくださいました。私のギター演奏が中止となった時点で、1月23日(水)、清道さんからメールが届きました。箇条書きで紹介します。

1) ギターを弾きながら詠むスタイルは、技術の問題とは別に、音と言葉の関係に思いを至らせる。

2) 音楽の役割、詠むまたは演奏するという行為、これらの関係を不明確にしようと思う。弾きながら詠むスタイルは、シンガーソングライターと変わらない。詩にリズムと音をつけ、弾きながら歌い、語るスタイルは、作曲者としての自分が考える、詩と音楽の関係と違っている。

3) 詩として完成している作品を歌にすることに疑問を感じてきた。それが、歌曲に積極的になれなかった理由である。歌にすることで、個人の鑑賞の自由を制限してしまうことが問題だ。

ここまでの清道さんの考えに、私は同感です。シンガーソングライターの歌は、あまりに気持ちよすぎます。聴く人にとってというより、演奏する人にとって。
もちろん、過去には吟遊詩人がいました。長い時代を経て、形を変えながら、詩を書き、歌い、語る営みが続いていることを知っています。私も、吟遊詩人に憧れを抱いています。抱きながら、清道さんが考えていることに、共感をするのです。現代人として。(33回/2.12分 2.18アップ)
清道さんの手紙は続きます。

4) 朗読について、3人いれば3人の、100人いれば100人の詠み方があるはずだ。お客様は自分と異なる詠み方に出会った場合、歌の場合よりも大きな違和感を感じるだろう。

清道さんのいうことはわかります。歌の場合も、人によって、特に歌を歌っている人には、他人の歌に違和感を覚えるでしょう。私の詩唱、それを朗読として、芝居をしている人などが聴くと、とても大きな違和感を感じているのではないでしょうか。違和感を感じさせないほどの圧倒的な力を、私の詩唱が獲得していないゆえ。 先ほど、シンガーソングライターという言葉が出てきましたが、その歌い方がよいと思っている人には、イタリア・オペラのベルカント唱法など、なんて大袈裟な歌い方だと思われて当然です。逆の立場からいえば、発声のなっていない歌だということになります。流儀の違いは、他者を否定することにつながってしまいます。それは、やはり不幸なことでしょう。

5) トロッタでは、その違和感を減らすため、複数の朗読を対比させたり、演劇のように構成し、あるいは動きをつけることで、詠み方に制約を加えてきた。詩と音楽、どちらが主でも従でもなく、対立や対比をされるものでもなく、一体で一つの塊にすることを試みるものであった。

トロッタの詩唱者は、まず私ですから、これを読んだ時、清道さんが私に与えてくれていたのは、“制約”であったのかと思いました。そうは思っていなかったのです。『椅子のない映画館』『ナホトカ音楽院』『蛇』『アルメイダ』『主題と変奏、あるいはBGMの効用について』でも、私は自由を感じていました。“制約”という言葉を使うなら、“制約”されることで生まれる自由、ということでしょうか。(34回/2.13分 2.18アップ)

6) 『いのち』は、聴衆であり受け手であるお客様を、何とか巻きこみ、発信元にしたい。ステージ上の詩人以外が声に出して『いのち』を読む。詩人はこれを聞く。全体の半分以上、詩人は受け手になっている。鑑賞者は全員表現者となり、会場には受け手がいない。すべての境界を取り払ったアナーキーな状態がベスト。

■ 聴衆が発信する


清道さんの手紙は、このような内容で締めくくられていました。
清道さんは、劇団、萬國四季協會で活躍しているので、音楽と演劇の両方に、発想の根があると感じます。音楽性の追究だけでは満足できません。音楽性を追究するだけでも大変ですし、それは人が一生をかけてなお不十分なものです。演劇もまた同様ですが、その音楽と演劇の両方を考え、それは別にではなく、一緒に考えることで、清道洋一の表現というものを考えています。まさに、アナーキーです。安住しません。従って、安心感も得られません。これでいいということがないのです。他人がこういっているからこれでいいという、お手本のない世界に、彼はいます。
清道さんは、当初に予定していた『いのち』という、詩そのものの曲名ではなく、『「いのち」より』にしたいと、後で訂正を申し出ました。木部与巴仁の『いのち』をもとに、清道洋一の『いのち』を創りたいと思ったのでしょうか?
送られてきた楽譜の表紙に、こんな言葉が書かれていました。

「聴衆は表現者となって、どこかに居るであろう不特定多数の『聴衆』へ向かって、発信を試みる」

見えない聴衆は、現実には、おそらく、どこにもいません。いない聴衆に向かって、彼は発信しようというのです。舞台上の演奏家が、客席にいる聴衆に向かって何事かを行うのが音楽、音楽会であり、そこで表現が完結、完成するとすれば、彼は完結も完成も期していないことになります。
トロッタ8の『蛇』で、曲の終わりになって、私は舞台から飛び降り、蛇となって場外に駆け出して行きました。かつて、私も芝居をしていましたが、非常に演劇的だと感じます。それは一種の演劇論であり、劇場論でもあります。
劇場だけで芝居は終わらない。観客が劇場を離れ、家に帰ってもなお、芝居は続いている。劇場は劇場空間だけに閉ざされておらず、街路にまで解放されている。
常に、そのようなことを考えていた私です。音楽についても、同様の考え方をしています。清道さんと共通することが、おそらくは多いと思っています。(35回/2.14分 2.18アップ)
結局、生き方の問題なのだと思います。
音楽性を純粋に追究しようとする。
音楽の枠にとらわれない表現を追究しようとする。
どちらも、立派な表現です。完成度は、後者が低くなると思います。しかし、完成を期さない、未完成でもよい、考え方を表現したいと思う。これも立派な表現です。コンセプチュアル、概念的、観念的であるとの批判を受けるでしょう。完成度が低いのに満足している、と。いや、満足をしていないのです。このあたりで、根本的な相違が生まれることになります。
決して、下手な演奏を聴かせて満足するわけではありません。それは、お聴きいただく方に失礼です。一生懸命に演奏します。練習もします。しかし、何のミスもなくできたからといって、よかったと思わないということ。もう少し、違うところをめざしているのです。
そもそも、清道さんは『「いのち」より』で、お客様にも詩を詠んでいただこうとしています。こういう参加型の表現は、なかなかうまくいきません。舞台に立つ側は、何が行われるかわかっており、練習もしていますが、お客様は初めてであり、まず、心の準備ができていません。聴こうと思って受け身でお越しになっています。表現として声を出すということは、非常に難しいと思います。間違えるのではないか、とんでもない声が出たらどうしよう。どちらも、そうなってかまわないのですが、皆さん、怖れを抱いてしまいます。それを拭い去って舞台に引きつけていく技術は、なかなか得られるものではありません。
清道さんも、それはわかっているでしょう。わかっていて、なお確信的にそうしたいと思うのですから、誰も止められません。生き方を止せというようなものです。(36回/2.15分 2.18アップ)
2月15日(月)、西荻窪の奇聞屋で、『「いのち」より』を初めて練習しました。中川博正さんが、重要な役を務めます。聴衆に語りかけ、参加をうながしていくのです。私が新聞紙に包まれてじっとしている間、彼は詩を詠みます。楽器も演奏されています。どう詠めばいいのか。これまでのトロッタで私がしていたことを、中川さんがしているようなものです。
まず、段取りのややこしさを感じましたが、中川さんは、非常にとまどっていました。どう詠むか? これがわかりません。私もわかりません。清道さんにはわかっているかもしれませんが、彼にしても、本当はわからないのではないでしょうか? わかってしまっているようなことを、彼は要求していないはずですから。練習を重ねて、探っていくしかないのです。探る過程、そのひとつの形を、本番でご覧にいれることになるはずです。誤解を恐れずいえば、それは完成形ではありません。トロッタ11のプログラムをご覧ください。『「いのち」より』の前は、田中修一さんの『ムーヴメントNo.2』です。『「いのち」より』の後は、今井重幸先生の『神々の履歴書』です。どちらの作曲家も、完成度をめざしています。?お断りしておきますが、清道さんが完成度をめざしていないとは書いていないことに御注意ください?その間にはさまれた、清道洋一さんの曲。トロッタには、さまざまなタイプの作曲家と作品があります。それでいいと思っています。前後の作品が共振し合って、あれもいいが、これもいい、あれがいいのなら、これのよさは何なのか、あれを音楽というなら、これは音楽ではないのか、そのような疑問が生じることを期待します。音楽を解体せよとはいいません。解体されるべきは、私たちの安心感、先入観、動かない価値観だと思います。清道さんの曲が、他のスタイルの曲と響きあって、解体のきっかけになればいいのではないでしょうか。(37回/2.16分 2.18アップ)
最後に、清道さんとの試みについて、私の思いを記しておきます。これは清道さんと相談し合ったわけではない、私だけの考えです。
清道さんとは、ギター曲の創作を模索しています。ある会での発表は潰えましたが、私も清道さんも、ギター曲発表の可能性は捨てていません。つい先日も、ギター演奏会への出品を最後まで検討しました。それは発表までの時間の制約があり、新曲ではありませんでしたし、結果として発表しないことになったのですが、何とかして形にできないか、模索し続けました。
昨日、奇聞屋にて、毎月第三水曜日に恒例となっている、朗読の会が行われました。詩唱の中川博正さんに、打楽器の内藤修央さんを交え、トリオで、『夜が来て去ってゆく』を発表しました。それは、作曲家のいない作品です。作曲家の作品を演奏するのがトロッタの前提ですが、演奏者が、自分たちだけで創ろうとするものです。トロッタの初期、私ひとりで詩を詠んだことはありましたが、それを複数の人数で行い、楽器を加えて、中川博正さんという、男声の詩唱者を加えてゆく。新しい試みだと思います。
トロッタは、すでに10を数え、定型というものができています。それは奏者にとっても、お客様にとっても、予想できる範囲内のものです。定型は、けっこうなことです。演奏を、より高度なレベルに引き上げてゆきことができます。曲も、作曲者も、演奏者も鍛えられます。しかし、より新しいものを求める気持ちが、一方にあります。トロッタでは定型でも、一般的にいえば、トロッタはじゅうぶん、常に新しいことをしている自負が、私にはあります。それを、より新しくする。決して新奇さのみ狙うのではなく、お客様からも遊離せず、工夫を凝らし続けます。そのために手にしたいものが、私の場合はギターです。ギタリストが弾くのではありません。ギタリストは詩唱をしません。しかし私にとって、ギターは新しい世界です。これを獲得できれば、詩唱の可能性を広げられます。清道さんのいう、シンガーソングライターと同じことにならず、それも定型ですから、詩と音楽のあり方を求めたいと思っています。
そのためには、私はギターに精進しなければなりません。トロッタの準備に追われていることも理由ですが、ギターに割く時間が少ないことが悩みです。工夫いたします。ギターのための曲を書いてくれるかもしれない清道さんのために。私のためにも。詩唱のために。詩と音楽のために。(38回/2.17分 2.18アップ)