トロッタ通信 11-4



トロッタ通信 11-4


4 田中修一さんが提示したもの

■ 『亂譜』の世界

トロッタ11で『ムーヴメントNo.2 木部与巴仁「亂譜 瓦礫の王」に依る』を発表する田中修一氏に、新しい詩を依頼されたのは、トロッタ9の打ち上げの席でした。“『亂譜』の2をお願いします”というのです。その時はまだ番号がついていませんでしたが、トロッタ9では、『亂譜』という詩に依る、『ムーヴメント』の第一番を演奏しました。編成は、ソプラノ、打楽器、ピアノ、エレクトーン。もともと一番は、トロッタ3で初演されたもので、ソプラと2台ピアノによる曲でした。それを、エレクトーンを入れた形に変えたのです。 『ムーヴメント』について、しばしば田中氏は、2台ピアノによるくらいの曲でなければ作曲したと見なさないと私がいったといいます。トロッタ1で初演しました、『立つ鳥は』の、合わせの後。西日暮里の居酒屋でのことです。
確かにそういいました。力わざ、あるいはスケール感を欲していたのです。2台ピアノにしたから力わざになり、スケール感が出るかというと、多くの方には疑問を抱かれると思います。しかし私は、そのようなことが好きです。逆に、田中氏から、詩で、2台ピアノに匹敵するようなものを書いてくれといわれたら、引き受けるでしょう。私の感覚では、詩を一人で詠んでもスケール感を出さなければいけない、二人で詠むからスケールが生まれるかというとわかりませんが、あえて重唱にしてみる、斉唱にしたり合唱にするという詩作を厭いません。仮にです、ばかばかしいことをわざわざしていると思われても、私はかまわないのです。時には、ばかばかしいことでも、したくなるし、ばかばかしい中に一片の真実でも入れられればと願います。そして、2台ピアノによる『ムーヴメント』をばかばかしいことだとは、私は思っていません。
トロッタ9の『ムーヴメント』は、おおむね好評だったと思います。女性たちだけによる力強い演奏に、感銘を受けたという声を、多く聴きました。ありがたいことだと思いました。(24回/2.3分 2.6アップ)
『亂譜』の続篇として、何を書けばいいのか。田中修一さんからは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『ブロディーの報告書』のような世界をお願いしますといわれていました。私もボルヘスが好きです。『ブロディーの報告書』も読んでいたはずですが、記憶はありません。本は、すでに売ってしまっていました。改めて購入し、読みましたが、スコットランド人宣教師が異文化の風習を記録したスタイルの、ちょっとグロテスクな話です。観念の迷宮性を描いたのではなく、もっとストレートです。ボルヘスの狙いは、そこにこそ、あったと思われます。
一方で、トロッタ9を終えた後、私はある方から感想をいただきました。おそらく、それがトロッタ9全体への感想だと思うのですが、能の『姨捨(おばすて)』を観に行ったという話をされました。山に捨てられた盲目の老婆が、澄明な心で、月の光を浴びながら踊ります。
暴力とかエロスとか、そういう刺激的なものは、誰もが気をひかれて見るだろう。しかし、そんな表面的なものではない、非常に静かな世界。そういうものにある美しさを表現していかなければという批評だと、私は聞いていました。賛成です。暴力やエロスにも人間の本質はあると思います。暴力は嫌いですが、特にエロスにはひかれます。しかし、そのようなことを描くにしても、あくまでもテーマに至るための過程でありたいと思います。そして、最後には澄み切った美しさに到達する。2台ピアノの力強さやスケール感も、美しさに至るためのものでありたいと、今は思います。
お断りしておきますと、その方の感想は、『ムーヴメント』に対するものではありません。別の曲の、別の出演者への言葉です。しかし、繰り返しますが、トロッタ全体への感想だと、私は受け取りました。
田中修一さんのための新しい詩、『亂譜』の続篇は、その方の言葉を受けて書けると確信しました。頭に浮かんだタイトルは、『瓦礫の王』でした。(25回/2.4分 2.6アップ)
『瓦礫の王』とは、私が学生時代から大切にしまっておいた題名です。歌舞伎作者、鶴屋南北について、題名どおりのテーマで書こうと思っていました。彼は、すべての常識、既成の価値を崩してしまった後、瓦礫の山に、見たこともない光景を現出させる者だというわけです。
容易には書けません。大き過ぎる題名でもありました。ずっと書けずにいて、書けないうちに、原稿を書いたり芝居をしたりヴィデオ作品を創ったりと、いろいろなことを始めていました。しかし好きな題名で、自画自賛ではありませんが、スケール感が感じられるので、いずれ使いたいと思っていたところに、田中修一さんの話があり、『姨捨』の話を聞いて、これを作品名にした詩を書こう、書けると確信したのでした。『ブロディーの報告書』からはずれますが、しかし小説には、スコットランド人宣教師が見た、異文化の奇怪な王の姿が描かれてもいるので、“瓦礫の王”という題名と無縁でないとも思ったのです。
以下に、詩の全文を掲げます。

瓦礫の王

瓦礫なり
天まで続く 瓦礫なり
眼(まなこ)を奪う
満月
人はなく
銀(しろがね)の光
瓦礫を照らす

舞えよ
月下に われひとり
歌えや
月下に 声をふるわせて
見る者はなし
聴く者はなし

夜は深し
どこまでも深し
落ちゆく先は 底なしの闇
風の音のみ聞いたという
死者の繰り言

舞い続け
舞い続けて月に向く
立ち木として死ね
心に残す
何ものもなし
明日(あした)に残す
一言もなし
瓦礫の王が
ただひとり舞う
(26回/2.5分 2.6アップ)

田中修一さんが、『亂譜』の続篇をと希望をお述べになり、こうして『亂譜 瓦礫の王』を書き、さらに2010年の1月になって『ムーヴメントNo.2』の楽譜が届いてみますと、彼を見る目に、変化が生まれました。こういうと申し訳ないのですが、見直した気になりました。前がよくなくて、その後よくなった、というのではありません。善悪、優劣ではなく、彼に対する見方を改めた、ということです。ひとつの世界を追求していく行き方が、田中さんにあるのだなと思いました。
『亂譜』をシリーズにするとして、では何を書きたいか、私にわかっているわけではありません。さらに第三部をという声を、田中さんからいただいています。安部公房の『第四間氷期』にある、「ブルー・プリント」に通じる世界で、というのです。え? 安部公房。おまけに『第四間氷期』?
このまま『亂譜』が続いていけば、それをテーマにしたリサイタルが開けそうです。しかし、私にとっての『亂譜』が何かは、まだわからないというのが実情です。他の詩も同じで、書き始めてから、書き終えてから、何を書きたかったか、何を書けるのかがわかります。
ただ、二部にボルヘスのような世界をといい、三部に安部公房のような世界をと、田中さんはいいます。二人の作家を、私は好きです。田中さんと、小説家の好みが合っているということが、驚きでした。別に示し合わせたわけではありません。偶然です。
それは、乾いた世界なのでしょうか? 荒廃した世界なのでしょうか? 情緒に溺れない世界なのでしょうか? 抽象的、観念的な世界なのでしょうか? 少なくとも、男女間の情念を描くようなものではありません。私は、そちらも好きなのですが、溺れるタイプではないと思いますので、田中さんとはそのあたりで共通しているのかもしれません。(27回/2.6分 2.8アップ)

■ 詩と音楽の関係

演奏前に、あまり手の内をさらすのはよくないと思いますが。
ソプラノの赤羽佐東子さんによる歌は、曲の全体にわたっています。詩唱は、最後に少しだけ出ます。
こうなると、歌と詩唱の違いということが、私としては気になってきます。田中さんにとっての詩唱とは、何なのか?
トロッタで田中さんが発表した、声を使った曲を並べます。

トロッタ1 『立つ鳥は』ソプラノ*木部の詩による 西川直美さんが歌いました
トロッタ3 『ムーヴメント』ソプラノ*木部の詩による 成富智佳子さんが歌いました
トロッタ4 『こころ』ソプラノ*萩原朔太郎の詩による 成富智佳子さんが歌いました
トロッタ5 『遺傳』バリトン*萩原朔太郎の詩による 木部が歌いました
『立つ鳥は』ソプラノ*木部の詩による 赤羽佐東子さんが歌いました
トロッタ6 『「大公は死んだ」附 ルネサンス・リュートの為の「鳳舞」』詩唱*木部に詩による
『田中未知による歌曲』アルト*田中未知の短詠による かのうよしこさんが歌いました
トロッタ7 『こころ』ソプラノ*萩原朔太郎の詩による 笠原千恵美さんが歌いました
トロッタ8 『砂の町』ソプラノ*木部の詩による 赤羽佐東子さんが歌いました
トロッタ9 『ムーヴメント』ソプラノ*木部の詩による 赤羽佐東子さんが歌いました
トロッタ10 『雨の午後/蜚』ソプラノとバリトン*木部の詩による 赤羽佐東子さんと木部が歌いました
『めぐりあい?陽だまり?』合唱*木部の詩による 宮崎文香さんの曲を編曲

ここには器楽曲をあげていませんが、こう見て行きますと、田中さんもかなり、トロッタで歌を発表していることがわかります。このこと自体、田中さんの、ひとつの方向を追求しようという姿勢の表れでしょう。もちろん、トロッタに第一回から参加し続けること自体がそうです。今さら、田中さんへの認識を改めるというのも、おかしな話なのでした。誠に失礼しました。(28回/2.7分 2.8アップ)
田中修一さんにとっての“歌と詩唱の違い”ですが、もちろん、私に答えはありません。ただ、一曲にあるものとしては、違いはない、というのがひとつの答えだと思います。それは、田中さんの『遺傳』を、初演させていただいた時でした。

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる

このように歌い出します。「のをあある とをあある やわあ」という、犬の遠吠えまで旋律が与えられています。途中に、旋律のない個所があります。

お聴き! しずかにして

これはリズムだけで詠みます。次は歌。

道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠えだよ。
のをあある とをあある やわあ

そして次の個所には旋律もリズムもありません。

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供 犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた……

この曲には、歌と朗読があります。音楽と詩がある、と言い換えてもいいかもしれません。そして、歌と朗読、音楽と詩は、分たれず、ひとつになっています。田中さんの、“詩と音楽を歌い、奏でる”トロッタへの、トロッタでの、テーマに対するひとつの回答といっていい曲です。これもいずれ、再演させていただければと思っています。(29回/2.8分 2.10アップ)
目下、ある作曲家の方と、メールでやりとりをしています。トロッタ12へのご参加を前提にして、私のどんな詩がいいか、検討中なのです。すでに二篇ほど送らせていただき、さらに別の詩をお送りする予定です。これは当然のことで、初めての顔合わせですから、私の詩を使っていただく以上、そうした生のやりとりがあっていいわけです。詩人は、詩が書ければ楽しいわけですから。
トロッタの作曲家の皆さん、本当によく努めてくださっていると思います。詩と音楽の関係といえば、歌があり、朗読があり、というところが基本で、あとは独唱か合唱か、女声と男声の歌い分けか、さらにひとりで詠むか群読のように大勢で詠むかなど、歌い方や詠み方を工夫するくらいしかないのではないでしょうか。朗読は、所作を交えて芝居のようになるかもしれません。言葉が喚起するものが、音楽のような聴覚表現だけでなく、映像や、上野雄次さんの花いけのような、視覚表現になるかもしれません。他にもあるでしょうが、少なくとも現段階では、トロッタは詩と音楽の可能性を、できる限り指し示していると思います。
ただいま続けているという作曲家とのやりとりもまた、トロッタの歴史でしょう。すでに11回目を迎えようとしているトロッタの歴史を、彼と私で1から始めているのか、すでに10までの歴史がその方との間にはあって、その上でやりとりしているのか、その捉え方はさまざまです。田中修一さんのように、すでに典型に到達している方もいます。田中さんが、さらに思いもよらない形を出すか、新たな形を出すのは演奏家なのか、どちらの可能性もはらみつつ、田中さんには、これからも書き続けていってほしいと思います。
付け加えるなら、無駄な努力と他人には映ろうとも、スケールの大きな曲を志向していただきたいのです。(30回/2.9分 2.10アップ)