トロッタ通信 11-2



トロッタ通信 11-2


2 詩唱ということ

■ 中川博正さんと

トロッタ11に、再び、中川博正さんに参加していただくことにしました。
中川さんとは、9月にエレクトーンシティ渋谷行われた、トロッタ9でご一緒しました。特に、橘川琢さん作曲の『花骸-はなむくろ-』と、清道洋一さんの『アルメイダ』で共演したのです。中川さんは役者です。声優でもあります。声を出す人です。私もまた、声を出す人間です。
正直に申し上げて、似た表現をする彼を、私はじっと見ていました。冷静に。どんな表現をするのだろうという興味。どんな声を出すのかいう判断。どんな人なのかという疑問。中川さんには、私の目は、冷たく映ったかもしれません。
トロッタ10の舞台に、彼の出番はなかったのですが、裏方として参加していただきました。人手が足りなかったという事実はあります。役者なら体が動くから、裏方として協力してもらえるのでは? という期待がありました。それに加えて、彼という人間を知りたかったのだと思います。
その後、中川さんが出演した舞台、『天才バカボンのパパなのだ』を観に行きました。彼は、バカボンのパパを演じていました。
まず、中川さんの目で見て、私は不足していると思います。私から見て、中川さんには不足の点があります。さらに、お客様として足を運んでいただいた、ある役者の方に、方々といってもいいですが、私の表現は不足なのだそうです。あるいは、違っているのだそうです。似た表現をしている者は、お互いに対して敏感です。表現の細部がわかりますので。だから、私は中川さんを見ることができました。その中川さんと、トロッタ11で、再び共演したいと思いました。(10回/1.20分 1.25アップ)
中川博正さんと、何をするかは決まっていません。曲がないのです。正式のプログラムではなく、試演という名目で、短い詩を、一緒に詠もうとしています。打楽器の内藤修央さんにもご協力いただくことになっています。内藤さんには、即興の演奏をお願いしています。内藤さんは、前回のトロッタ10で、今井重幸先生の曲にお出になりました。私とは、谷中ボッサで三度、ご一緒させていただきました。内藤さんと即興でつとめる舞台の緊張感は、他で得られないものです。
しかし、詩は即興というわけにいかないので、本番までに決めます。つまり、私は中川さんと、詩唱のデュオで出演するつもりです。詩唱という表現を、追求したいのです。
こんな批判が、成り立つと思います。
詩の“朗読”を、音楽に助けてもらっている。
事実、そのとおりです。詩唱といいません、“朗読”を、声だけでもたせるのは、至難のわざです。ただ詠むだけなら誰でもできますが、それを表現にすることの難しさ。だからこそ、音楽があれば助かる。それではいけないという気持ちと、それでいいのだという、両方の気持ちがあります。後者は、初めから一体となった表現だから、切り離せず、どちらにとってもどちらも必要。別に助け合っているのではないということ。前者は、音楽がなくても、声だけで聴く者を飽きさせない技術が必要だという思います。どちらの考えにも正当性はあると思います。その、どちらの正当性も、私は追求していきたいのです。中川さんとともに。(11回/1.21分 1.25アップ)
中川博正さんは、詩唱の表現者として来てもらいました。何も、私が自分の表現を追求したいから協力を求めたのではなく、役者であり声優である、彼の表現にも役立つ、詩唱もまた彼の表現になると信じるからです。
そこで、1月20日(水)、西荻窪の奇聞屋にて、彼と一緒の舞台に立ちました。音楽はありません。声だけの舞台となりました。本来は、即興ピアノを弾いてくださる吉川正夫さんがおられるのですが、お風邪をひいてお休みでした。つまり、助けになるものがないわけですが、それでいいと思いました。詩唱だけで独立した表現にできます。
作品は、私の詩『夜が来て去ってゆく』を選びました。清道洋一さんのリクエストに応えて書いた詩で、「ドアを開けると/女が男を殺していた」のように、ドアを開けると、次から次へと、思いがけない光景が展開してゆくといった内容です。舞台が始まる2時間前に集合し、西荻窪で稽古をしました。私は、自分で書いたのですから内容をわかっていますが、中川さんは、この日に初めて目を通す詩です。即興が苦手だということでしたが、時間がないので、ひらめきをそのまま舞台で表現することにもなりました。
即興表現だけがよいのではありません。しかし、即興にも対応できればしたいと思います。何かが起きた時、舞台でとっさの判断ができることは重要です。それは、自分の声を聴くことでもあります。役者は、長い稽古を積み重ねて舞台に立ちますから、知らず知らずのうちに、稽古してきた通りに演じようと思いがちです。それでいいのですが、自然の生理に素直になることも大切です。舞台で、こうしたいと思えば、それに従おうと思います。生きているのだし、再生機械ではないのですから。(12回/1.22分 1.25アップ)
詩唱は、朗読に似ています。同じだといってもいいのですが、音楽を伴う表現として、私は朗読と区別しています。音楽として詩を詠もうと思っています。なぜ、音楽にこだわるのか? 先の記述と矛盾しますが、楽器の伴奏がなくても成り立つ、声だけの音楽表現を念頭に置きながら、このことを考えたいと思います。中川さんと追求したいのも、その点です。“詩と音楽を歌い、奏でる”トロッタが追求したい、といってもいいかもしれません。
私の中で、朗読は演劇に近く、詩唱は音楽に近いという区別があります。絶対の区別ではなく、仮にとしてでかまいません。
さらに、演劇は小説に近く、音楽は詩に近いという期別もあります。これも絶対ではありません。さらにいえば、詩唱は演劇ではなく踊りに近く、音楽は小説ではなく踊りに近いとも考えます。
演劇、音楽、小説、詩、さらに踊り。それぞれ、似たところはあっても、異なる独立の表現です。わざわざ共通点を探すことはありません。似ているという根拠も、印象に拠るところがほとんどです。ただ、これはいいたいところです。私は意味からできるだけ自由になりたい。意味にしばられたくない。教養や知識からも自由でいたい。私にとって、先にあげた表現で、最も意味性を感じる表現は、小説です。次に演劇です。次いで詩です。踊りが続き、音楽が最後です。いや、踊りを最後に持ってくる方がいいかもしれません。
音楽にも、言葉を伴う歌の場合があります。詩唱を音楽と考える私にとって、言葉をともないながら、それは意味から自由な音楽だと言い切るのは、実は困難です。その困難なことを実行したいのです。(13回/1.23分 1.25アップ)
ひとつ、私の詩は、発声するところから始めたいと思っています。この時点では、朗読も詩唱も同じです。少なくとも詩は、声に出して詠みたい。なぜかといえば、声に出すことは人にとって、文字を読む、文字を書くより先にあった行為だから。文字がなくても、声は出せます。書き留められていない物語も、声に出して聴かせる、表現することができます。物語を共有できます。場も共有できます。文字を読むとは、個人の営みにとどまります。大ベストセラーで、大部数が出たとしても、個人の営みが別々の場所で行われたに過ぎないと、私は感じます。声が出れば、それは肉体表現として音楽に大きく近づくと、私は思います。
何度も書きましたが、大晦日のニューヨークで、朗読会に参加しました。私は読まず、聴いていただけです。今は出版されていない長編小説を、声に出して回し読むことで、体験しようという催しでした。これにひかれました。私にとって、詠むことの原点です。ただ、音楽性は皆無でした。皆さん、座って、文字に目を落としながら詠んでいます。抑揚とかリズムとか、最低限のものはありますが、特に意識されてはいません。音楽性ではなく、声に出している点に、私はひかれたのです。
それでは、小学校の朗読と変わらないではないか。そう、変わりません。学校では、どのように意味付けているのでしょう。授業中の朗読を。見当がつきません。ただ読むだけでは、深く理解することにならないと思います。読む本人は、読むことだけに気をとられてしまいますので。意味をとらえることができないのではないでしょうか。これに似た点を、理由は違うと思いますが、私は重視したいのでしょうか? 朗読は、意味をとらえられない。意味ではなく、声による音を、重視するということ。(14回/1.24分 1.25アップ)
奇聞屋に向かう前、打ち合わせの時に、中川さんと雑談しました。声優の事務所と契約するのに、デモテープが必要だといいます。2分ほどの朗読テープが必要だといい、例えばこのようなものを読めればといって、彼は川端康成の『掌の小説』を見せてくれました。しかし、それは登場人物が男女であり、男と女の会話が基本でした。私は彼のために、ドラマを書こうと思い、約束しました。不出来なものでなければ、オリジナルの方がいいのではないでしょうか? 声優としての、彼の力を聴かせられればいいわけです。書き上げて彼に送ったのは、二日後です。
声優であれ、演奏者であれ、さらに詩唱者でも、どれだけ立派な意味を持ち、立派な考えを持っていても、それが表現できなければ、それこそ意味はないというのが、私の考えです。詩なりドラマの背景を理解するのは、当然です。しかし、意味だけ伝えようとしても無意味だと思います。
弾ける人にはつまらないたとえ話でえすが、例えば、私は今、ギターを習っています。指が回りません。非常に苦労しています。また、爪を伸ばして初めてわかりましたが、人さし指の爪の形が、ちょっと変で、先端が鳥の爪に似て、ひっかかりやすくなっています。中指も薬指もまっすぐ伸びているのに。 指が回らないこと。爪の形がいびつであること。克服する方法はきっとあります。練習あるのみでもかまいません。しかし、そこに意味が入り込む余地は、私にはないのです。肉体が動くようにする。その目標だけがあります。
*文章表現でも、実は意味が最優先じゃないんだと、わかっています。もっと、肉体の表現であり、感情の表現です。しかし、読者が受け取る際、作者の肉体がそこに不在であることは間違いありません。読者が、食費も足りない貧しい状態で、むさぼるように小説を読んでいる時、印税で肥え太った作者が、ますます肥え太る食事をしていてもかまいません。ただし、私はそんなあり方に共感しません。送り手と受け手が、場を共有できればいいと思っています。
中川博正さんがほしいものは、意味ではなく、自分を表現する素材でしょう。演奏家にとっての楽譜です。うまくできたかどうかは知らず、私は、そのようなものを欲する中川さんに共感し、ドラマを提供したいと思いました。(15回/1.25分 1.26アップ)

■ 批評を受けて

1月27日(火)、東京音楽大学民族音楽研究所にて、甲田潤さん立ち会いのもと、根岸一郎さん、仁科拓也さん、並木桂子さんが参加して、『摩周湖』の二度目の合わせが行われました。私はずっと聴いていました。
思いましたことです。どんな楽器の伴奏もなく、また自らの言葉に旋律もリズムもなく、ただ語るだけであれば、人は言葉の意味を考えながら読みます。大人ならそうするでしょう。子どもは、自分の経験からして、あまりできないと思います。いずれにせよ、しかし伴奏が伴い、言葉に旋律やリズムが与えられると、人はとたんに意味を見失い、意味を乗せられなくなるのだなということです。乗せられますが、音楽として乗せるのが、非常に難しくなると思いました。根岸さんは、健闘しておられました。当然、私などよりも乗せておられます。折しも、昼間は、三木稔さんのオペラの稽古があったそうで、日本語を歌うことの難しさを実感したところだったそうです。
並木桂子さんが、日本音楽舞踊会議の機関誌「音楽の世界」2010年1月号を持ってきておいででした。そこに、去る12月に行いました、同会議の演奏会「初冬のオルフェウス」の演奏会評が載っていました。私も出ました、橘川琢さんの『冬の鳥』について、詳細な批評がありました。そもそも、今号は、「初冬のオルフェウス」の批評特集なのです。4人の評者が、演奏された8曲すべてについて、語っています。私関係について、抜き書きしましょう。
「男声の語りは多少耳障りな叫びや、言い回しが少し気になる」
「木部の朗読は、思い入れが大きく朗読のための朗読になっていて、声色・リズム・テンポ・調子等を工夫して、コンサートの朗読であるのだからもう少し音楽的な朗読を試みたらどうか」
「時折、詩の朗読が音楽的調和を乱しているように感じられる個所があった」
「詩と朗読はいささか鑑賞に傾きつつも、人間の宿命に対する締念と歓喜の入り混じったような、割り切れない世界を描こうとしていた」……
もちろん、私に関するだけの批評ではありません。しかし、この批評は、私ができたこと、できなかったこと、しようとしていること、などについて触れていると思いました。(16回/1.26分 1.27アップ)
正直いって、私の詩唱に、他人に伝えるべき方法論はありません。詩唱の講座を開いたとして、この基準に達したから合格点といったことがいえないのです。五里霧中です。どうなったからいいということをいえません。朗読のための朗読になっているから、どうすれば音楽的な朗読になるのかなど、『冬の鳥』の演奏について、評者が批判する点を、どうすれば改善できるか、はっきりしたことがいえないのです。
音楽には楽器ごとに先生がいて教室があります。芝居には養成所があり、朗読にも、朗読教室なるものがあります。世の中、教室のないものなど、ないのではないでしょうか? ロックやジャズにも教室があり、先生がいます。聴く人を納得させられる方法論が、そこでは伝授されているのでしょう。古い時代には、教室など皆無だったはずですが、音楽は成立していました。教室のようなものに向かない人、教室をはみ出すような人にこそ、もしかすると、やむにやまれず生まれる音楽があるのではないかと思いますが、個人的には、先生と生徒の関係を否定してはいません。
詩唱にせよ、無手勝流でいいとは思わないのです。でたらめにしているつもりはなく、その底流には、私の経験から芝居と歌がある、芝居と歌を生かしたいと思っているので、だから、声楽のレッスンを受けています。歌えるようになって、私の詩唱はあると思います。さらに、最近のことですが、ギターのレッスンも受けるようになりました。楽器、特にギターは詩唱にうってつけだと思いますし、それを奏でながら詩唱できるようになれば、表現の幅が広がると思います。
これは先生方には申し訳ありませんが、自己流でできるとしても、先生と話しながらレッスンをしていく過程で、いろいろなことを考えられます。理屈だけで音楽とは? 詩唱とは? トロッタのあり方とは? そんなことを考えていても仕方ないので、実際に音を出し、コミュニケーションしながら表現を模索してゆくおもしろさがあります。もちろん、ほとんどの時間は五里霧中です。中川博正さんと、詩唱を追究しようと思いました。少しでも具体性を持ちたくて、一緒に探っていこうと思いました。中川さんを見ながら、わかることがあると思うのです。(17回/1.27分 1.29アップ)