トロッタ通信 11-1 1 伊福部昭と更科源蔵 ■ 更科源蔵のこと 前回の「トロッタ通信 10」は、伊福部昭先生の歌曲『知床半島の漁夫の歌』から書き始めました。今回もまた、伊福部昭先生の作品から、始めます。 バリトンの根岸一郎さんは、伊福部先生の曲を歌いたいというご希望で、前回から、トロッタに参加してくださいました。作曲家がまず曲を書いて、という印象のトロッタですが、演奏家の側から、こういう曲をという希望が、もっとたくさんあっていいと思います。トロッタ8では、山田令子さんも、伊福部先生の『日本組曲』を演奏してくださいました。*運営システムともかかわる問題なので、それが増えた場合、システムの見直しが必要とは思いますが。 私にとって、伊福部先生の歌曲について考えることは、“詩と音楽を歌い、奏でる”トロッタのあり方について、考えることです。作曲家が、詩と出会い、詩をどのように音楽にするか。あるいは、していこうとするか。その心の動きが、私には共感できます。つまり、作品を創るということ。何もないところに何かが生まれる。何かを生む。これが、私の気持ちをかき立てます。(1回/1.12) 『伊福部昭 音楽家の誕生』に結びついた、伊福部先生への取材を始めた時、私は更科源蔵を知りませんでした。1983年だったと思います。詩と音楽というテーマなど、私の頭にはかけらもありませんでした。伊福部昭ファンであるというだけの理由で、取材を始めたのです。何の予備知識もないまま始めた。伊福部先生についての資料が、今ほどなかったとはいえ、無鉄砲もいいところです。しかし、それが今のトロッタに結びつき、作曲家や演奏家の方々との結びつきにつながっているのですから、人生の不思議さを思わざるを得ません。 ただ、更科源蔵の周辺については、知ろうとしていました。間接的に知っていました。それは、伊藤整が実名を生かしながら書いた小説『若い詩人の肖像』を通してです。高校一年か二年の時、今井正監督の映画『小林多喜二』を観ました。そこに、『若い詩人の肖像』の一場面を映像化する形で、多喜二が登場します。小樽中学生だった、伊藤整少年の目を通した、多喜二少年が描かれています。伊藤整は1905年生まれ。多喜二は1903年生まれ。伊福部先生は1914年生まれですから、ふたりは約10歳の年長です。小説『若い詩人の肖像』や映画『小林多喜二』には、北海道が描かれます。それは伊福部先生が生活していたよりも10年前の風景なのです。そして『若い詩人の肖像』に、更科源蔵が登場します。更科は、1904年生まれ。伊藤整、小林多喜二と、同じ世代です。(2回/1.13) 伊藤整、小林多喜二、更科源蔵と名前を書き並べると、彼らが文学者であったことに、思い至ります。当然の話ですが、音楽家ではありません。私の出発点は、やはり、文学にありました。これについては、トロッタの会に参加している今、非常な悔しさを伴って自覚するのですが、私という人間の人生を考える上で、否定しようのない事実です。文学から出発せざるを得ません。まず、言葉の人間であったということ。音符の人間ではない。しかし、だからこそ、音楽のみではない、詩と音楽というテーマを設定できました。これを特徴、個性であると、思います。音で考えない、言葉で考えることが欠点だと自覚していますが、何ごとによらず、欠点もまた個性であると思えば、長所になり得ます。詩と音楽を、どう結びつけるか。融合するか。大袈裟ではなく、そのことを継続して考えている音楽の集団は、トロッタしかないと思います。作曲家、詩人、演奏家などに、個々の断片的営みはあるでしょうが、おそらく、トロッタだけが、“詩と音楽を歌い、奏でる”作業を継続しています。トロッタは未完成です。いろいろと、批判されて当然です。永遠に未完成なことをしていると、私は思っています。完成してしまったら、次の回を開く意味はないでしょう。 これは批判の意味ではないのですが、伊福部先生と更科源蔵の間で、詩と音楽を共同で作り続けて行こうとする考えはなかったと思います。別になくてかまいません。伊福部先生は、更科の詩を四篇用いて、四つの歌を創作しました。トロッタ11で演奏される『摩周湖』、トロッタ10で演奏した『知床半島の漁夫の歌』、いずれは演奏したい『オホーツクの海』、そして『蒼鷺』です。 更科源蔵は、詩を詩として書き、音楽にすることは考えなかったでしょう。伊福部先生からの申し出はあったでしょうが、詩を書いた結果として音楽ができたので、共同作業の意識はなかった。詩を書いている時に、音楽は、おそらく聞こえていなかったと思います。(3回/1.14) いささか、筆が走ったかもしれません。 私は、作曲家に詩を渡す時、いや、詩を書いている時、音楽を聴いているでしょうか? トロッタ11では、田中修一氏が、『亂譜 瓦礫の王』を用いて『ムーヴメント2』を発表し、橘川琢氏が『うつろい』を用いて『詩歌曲「うつろい」』を発表し、清道洋一氏が『いのち』を用いて『いのち』を、長谷部二郎氏が『人形の夜』を用いて『人形の夜』を、それぞれ発表します。しかし、私は何の音楽も聴いていません。こういう音楽が、こういうスタイルで生まれればいいということも考えません。仮に音が聴こえるとしても、積極的に、私は聴かないでしょう。聴こえるのは私の音楽だからで、詩を託そうとする作曲家の音楽ではないからです。他人と共同作業するのですから、自分の音楽だけ聴いていては、おもしろくありません。何が生まれるかわからないからおもしろいので、むしろ自分と正反対の感性を持つ作曲家にこそ、詩を預けたいと思います。 その意味で、更科源蔵は、まず、詩人として詩を完成させました。そして伊福部先生は、1943(昭和18)年に発行された更科の詩集『凍原の歌』を手にして、熟読し、その中から四篇を選んで、音楽にしようと思った。結果、更科は四曲を聴くことなく亡くなりましたが、伊福部先生の曲を通して、更科源蔵という詩人の存在は、音楽の世界で永遠のものとなりました。『若い詩人の肖像』に登場するとはいえ、伊福部先生の歌がなければ、私は更科を意識しないままに終わったと思います。(4回/1.15) 『原野彷徨 更科源蔵書誌』という、小野寺克己氏の労作があります。更科源蔵の著作、文献、年譜をまとめたものです。これ一冊を持っていれば、更科源蔵の一生は、ほぼつかめます。伊藤整や小林多喜二の名も見えます。『知床半島の漁夫の歌』のもとになった詩、『昏れるシレトコ』を書くきっかけになった、知床半島への旅のことなども記されています。 ただ、1983(昭和60)年、若かった私も記憶している事柄、年譜に「アイヌ女性より第一法規刊『アイヌ民族誌』に掲載の写真について肖像権侵害、と東京地裁に訴えられる」と書かれた点は、詳細がわかりません。更科の死後、1988(昭和63)年に「和解」したと、短く書かれているだけです。もちろん、事実を伝えるのが『原野彷徨』のテーマなので、より深い内容については、知りたいと思う読者ひとりひとりが、探ればいいのです。更科の晩年に起こった、残念なできごとですが、裁判になった以上、残念なのは更科、アイヌ女性か、周囲の者が軽々しく判断することはできません。しかし、見過ごせない重要なことではあります。 私は『原野彷徨 更科源蔵書誌』を、札幌の古書店で買い求めました。発売元である古書店、サッポロ堂書店のご主人、石原誠さんのご好意によるものでした。石原さんには、たいへんお世話になりました。『伊福部昭 音楽家の誕生』は、石原さんを始め、多くの方々のご好意がなければ完成しませんでした。となると、そうした方の存在は、トロッタの会の遠い出発点にもなっているわけです。トロッタの会をスタートさせてから、その事実を、私は一度も自覚しませんでした。伊福部先生のことは、常に思っていましたが。たいへん、失礼なことでした。申し訳ありません。(5回/1.16) 更科源蔵は、摩周湖がある、弟子屈の生まれです。青年になってからは、東京と北海道を行ったり来たりしながら、生活に、詩作に明け暮れていました。更科にとって、その二つは決して分けて考えられず、生活しながら詩を書き、詩を書きながら生活していたと、私は考えます。そうした中で、約10歳の年下である、伊福部昭と知り合ったのです。 そのきっかけは、札幌における文化人の集まりで、更科も伊福部先生も参加した、「五の日の会」だったでしょう。1940(昭和15)年のことです。更科が編集した雑誌「北方文藝」第三号には、1942(昭和17)年、伊福部先生も寄稿しています。当時の伊福部先生は、1935(昭和10)年に『日本狂詩曲』でチェレプニン賞を受け、『日本組曲』がヴェネチア国際現代音楽祭に入選し、『土俗的三連画』や『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』を書いて、新進作曲家として、その名を知られていました。まだ歌曲は書いていませんが、更科源蔵という詩人と出会い、いずれは詩のある音楽を、と思ったでしょう。事実、1942(昭和17)年の「東京日日新聞」北海道版には、伊福部先生が更科源蔵の詩にもとづいて、『オホツクの海』(新聞表記のママ)を書く予定であると、報道されている。「詩は『北方文藝』の更科源蔵氏に依頼」ともある。とすれば、伊福部先生が、更科に、詩を書いてほしいと頼んだことになります。これが事実とすれば、私の認識が、いささか足りなかったようです。伊福部先生は、既成の詩を、ただ選んだだけではなかった。詩人に、詩を依頼して、曲を書こうとしたことになります。詩人と作曲家による双方向の交流が、はっきりとあったのです。 実際に、オーケストラと合唱による『オホーツクの海』が演奏されるのは、1958(昭和33)年です。伊福部先生自身が指揮をした、北海道放送による放送初演でした。そして更科源蔵は、死が間近い晩年の日々をまとめた詩集『如月日記』1984(昭和59)年2月21日の一篇に、『オホーツクの海』が舞台初演された日のことを記しているのです。 こうした事柄を、私は、『音楽家の誕生』以下の三部作に、できる限り詳しく、共感をこめて書きました。今、読みますと、いささか共感の度が過ぎたのではないかと思うほどです。(6回/1.17) ■ 摩周湖 以下は、トロッタ11のチラシのために書きました、解説です。 摩周湖 【1992】 作曲・伊福部昭 詩・更科源蔵 トロッタ第10回公演で演奏した『知床半島の漁夫の歌』と同じく、更科源蔵の詩による、伊福部昭の歌曲である。「摩周湖を書くことは、私にとってもっとも容易であり、同時に一番むずかしいことでもある」更科は、著書『北海道の旅』で、こう述べる。生まれ故郷の北海道・弟子屈村東端にある摩周湖は、更科自身の肉体であり、父であり母でもあった。詩は1943年刊行の第二詩集『凍原の歌』で発表された。伊福部が作曲したのは、半世紀後の1992年で、初演は翌1993年。伊福部作品に力を注ぐソプラノ藍川由美の歌とともに、ヴィオリスト百武友紀の存在も、『摩周湖』作曲の大きな力となった。伊福部によると、摩周湖はアイヌによって“神の湖”と呼ばれた。哀しいほどに美しい摩周湖の姿を、バリトン根岸一郎、ヴィオラ仁科拓也、ピアノ並木桂子の演奏で受けとめていただきたい。(木部与巴仁) 字数の制限がありますので、短くまとめましたが、曲の概要は、ほぼおわかりいただけると思います。続いて、『摩周湖』の全文を載せます。 『摩周湖』 更科源蔵 大洋(わだつみ)は霞て見えず釧路大原 銅(あかがね)の萩の高原(たかはら) 牧場(まき)の果 すぎ行くは牧馬の群か雲の影か 又はかのさすらひて行く暗き種族か 夢想の霧にまなことぢて 怒るカムイは何を思ふ 狩猟の民の火は消えて ななかまど赤く実らず 晴るれば寒き永劫の蒼 まこと怒れる太古の神の血と涙は岩となつたか 心疲れし祖母は鳥となつたか しみなき魂は何になつた 雲白くたち幾千歳 風雪荒れて孤高は磨かれ ヤマ ヤマに遮り はて空となり ただ 無量の風は天表を過ぎ行く 以上です。 2004年の『時代を超えた音楽』で、当時の私なりに、『摩周湖』を分析しています。本来は、音楽を聴き、楽譜を読み、詩を読み、それだけでいいはずのところを、いろいろと書いているので、それ自体が私の思いの表われではありますが、余計なことという思いが、今の心境としてはあります。文章で書くと、どんなにすぐれた分析でも限界はあるので、それよりは、トロッタの会のように、演奏するのが一番だと、私は思っています。しかし何度も書きますが、伊福部先生への取材に始まり、関係した人や土地を取材し、さまざまな文献を読み、三冊の本にし、そういうことを経ないではトロッタに行き着けなかったのですから、何もかもが必要だったこと、遠回りでも無駄はひとつもない、たとえ出発点が音楽ではない文学であろうともと、私は納得したいと思います。(7回/1.18) 伊福部先生は、詩人ではありません。音の作り手ではありますが、言葉の作り手ではありません。『管絃楽法』のような解説書はありますが、文学ではありません。先生のお考えはわかりませんが、一方に音楽があれば、一方に詩がある。どちらの表現も芸術と呼ばれる。自分が音楽の書き手であれば、詩の書き手がほしい。詩そのものがほしい。それは、自分が仮に詩人なら書いたであろう、言葉の連なりである。更科源蔵の詩に、共感できた。共感できたなら、それを歌曲にしてみたい。このようなお考えではなかったでしょうか? 『知床半島の漁夫の歌』にせよ、『オホーツクの海』にせよ『摩周湖』にせよ、スケールの大きさを感じます。大自然とか、民族とか、歴史とか、そのような言葉も印象として浮かびます。伊福部先生の音楽には、そのようなスケール感があります。伊福部先生の音楽は、やはり、大きなスケールの詩を欲したのでしょう。それに応えた更科の詩も、スケールが大きいということになります。ちまちましていません。いきなり、山や川や海の姿を詠み、人を、それと同等のものして歌い上げるのですから。東京の街の中にいたのでは、生まれない詩ばかりです。伊福部先生もまた、森林官として山に住み、海を間近に感じて、青年期を過ごしました。ふたりとも、そんな自分の姿を客観視するだけの近代性は持っていたのですが。ふたりとも近代人です。丸ごとの野生児ではありません。野生児なら、詩も音楽も必要なかったでしょう。野性的な感性を持った近代人として、さらに同じスケール感を持つ者同士として、詩人と作曲家は、幸福な出会いをしたことになります。(8回/1.18) 明日、1月20日(水、)トロッタ11のための、初めての合わせが池袋で行われます。『摩周湖』の練習です。バリトンの根岸一郎さん、ヴィオラの仁科拓也さん、ピアノの並木桂子さんによります。私も聴かせていただきますが、非常に楽しみです。 『摩周湖』は、ソプラノの藍川由美さんに献呈されています。藍川さんは、伊福部先生の歌曲だけを集めたリサイタルを、何度か開催されました。CDとしても、10曲を収録して、作品世界をまとめておられます。藍川さんがいなければ生まれなかった作品だと思います。生まれたかも知れませんが、すぐ演奏することにはならなかったでしょう。藍川さんは、歌いたいと思っておられました。その気持ちが作曲家を動かしたのだと確信しています。幸せな、音楽の関係だと思います。 トロッタ11でお歌いになるのは、根岸一郎さんです。始めに書きました。演奏家の側から、こんな曲を演奏したいという希望が、もっと出てもいい、と。詩人と作曲家だけでなく、演奏家と作曲家、演奏家と詩人、さらに詩人と演奏家と作曲家という関わりの中で、もっと曲が生まれていいと思います。 すでにその形は示していると思いますが、もっと深く。トロッタを開催する時だけ集まるのではなく。−−いや、トロッタを開催する時だけに集まるからいいのかもしれません。 トロッタはどこに行くのか? というテーマをしばしば投げかけられます。それはわからないのですが、詩人と演奏家と作曲家が共同作業をする形は、維持していいでしょう。それを維持することが目的、その方向で音楽を創る、それがトロッタの行く先だとは確かにいえます。その形を作っておけば、何でもできると思います。(9回/1.19) |