トロッタ通信 10-5



トロッタ通信 10-5



「もう一度、詩と音楽を」


■ アポリネール

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

日も暮れよ鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る
日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

Le Pont Mirabeau

ギョーム・アポリネールの『ミラボー橋』です。堀口大學の翻訳で、新潮文庫の『アポリネール詩集』から引用させていただきました。かつての恋人、マリー・ローランサンへの想いを詠んだ詩であるといいます。1913年刊行の詩集『アルコール』に収められた後、音楽となり、シャンソンの名曲として多くの歌手が歌ってきました。『アポリネール詩集』の『アルコール』の章には、『マリー』という詩もありました。マリー・ローランサンの面影を詠んだ作品です。始まりの二連です。

小娘でここで踊っていたあなた
祖母(おばば)でここで踊るだろうか
ここの踊りのマクロット?
マリーよ あなたはいつ戻る?
ありたけの鐘を鳴らして祝おうに!

仮面(おめん)をつけた人たちもひっそりとして踊ってる
音楽は遠いところで鳴っている
空から聞こえてくるみたい
そうなんだ あなたを僕は愛したい だがそっと!
そのほうが悩むにしても楽だもの

トロッタ10では、偶然ですが、アポリネールとマリー・ローランサンにゆかりの曲が並びました。それも、始まりと終わりに。どちらも、今井重幸先生の曲です。
幕開きの曲、「今井重幸によるヌーベル・シャンソン 新しい歌の流れII」の一曲『鎮静剤』は、マリー・ローランサンの詩、堀口大學の訳です。すべて引きましょう。

退屈な女より
もつと哀れなのは
かなしい女です。

かなしい女より
もつと哀れなのは
不幸な女です。

不幸な女より
もつと哀れなのは
病気の女です。

病気の女より
もつと哀れなのは
捨てられた女です。

捨てられた女より
もつと哀れなのは
よるべない女です。

よるべない女より
もつと哀れなのは
追われた女です。

追われた女より
もつと哀れなのは
死んだ女です。

死んだ女より
もつと哀れなのは
忘られた女です。

大學の『月下の一群』に編まれた1916年の作品で、ローランサンに捧げたアポリネールの詩が、1913年の詩集に収録されているところを見ると、男の詩を読み、女は詩を書いたのかもしれません。当時、すでにローランサンは結婚して、パリからは遠く、スペインで暮らしていたそうです。
トロッタ10の最後を飾る『時は静かに過ぎる(「奇妙-ふしぎ-な消失」より)』は、アポリネールの短編『オノレ・シュブラック滅形』を原作に、堀口大學が訳し、これを台本作家の紀光郎(のり・みつお)氏が構成した作品をもとに、今井先生自らが編曲をほどこした、ほとんど新曲のような作品です。
私はフランス文学に疎く、アポリネールもマリー・ローランサンも知りませんが、詩と音楽について、恋人同士だった詩人たちの作品を通して、考えることができます。

■ 「思い出は狩の角笛」

『オノレ・シュブラック滅形』は、詩ではありません。小説です。散文であり、歌になりそうにありません。今井重幸先生は、紀光郎氏の構成をもとに、朗読をともなう音楽にされました。曲名は『ル・コント ファンタジー 奇妙-ふしぎ-な消失』。今年の9月17日(木)に初演されました。私は残念ながら聴くことができませんでしたが、演奏直後、音楽評論の西耕一氏が口にした言葉を覚えています。「朗読がある曲で、トロッタで演奏したらいいですよ」
当日プログラムを見ると、編成は、語りに、ヴォーカル・二十絃箏、チェロ、マリンバ・打楽器、フルート、サブヴォーカルとなっています。これをトロッタ10では、バリトンとソプラノ、フルート、オーボエ、弦楽四重奏、打楽器としました。チラシには書きませんでしたが、今井先生の作曲過程で、私も、詩唱・朗読として出演することになりました。総勢11名です。
初演と再演の間隔がほとんど空いていません。しかも、初演と再演は、まったく違った編成になりました。珍しいことだと思います。

オノレ・シュブラックという男が、ある人妻に恋をします。夫の留守中に逢い引きをしていると、そこに夫が現われ、オノレ・シュブラックをピストルで撃ち殺そうとします。恐怖にかられて壁にはりつくと、そのまま壁に溶けこんで消えてしまう。これが「滅形(めっけい)」です。彼は難を逃れましたが、恋する人妻は撃ち殺されました。以来、夫の目を逃れて、パリの街を彷徨する。夫に出会うたび、壁に溶けこんでノノ、という物語です。

今井重幸先生に、お話をうかがいました。

「アポリネールの短編は、小説ですが、戯曲風の趣があります。初演では、ベテランの俳優で、声優でもある八木光生さんに出演していただき、彼が原作をすべて語りました。また、紀さんがアポリネールのいくつかの詩句を引用し、これを構成して三つの詩を作りましたので、メロディを添えて歌にしました。歌い手は二十絃奏者です。箏と弾きながら歌ってもらいました。さらに、ブリッジと呼ぶ短い曲を書いて場面をつなげてゆく。そのような構成の曲にしました」

今井先生によると、紀光郎さんは、花柳伊寿穂の名前でご活躍の日本舞踊家ですが、紀光郎名義で、台本作者として活躍しておられます。また、お兄様がフランス文学者であり、その影響で、紀さんもアポリネールなどの作品に親しんでおられたとか。紀さんが、アポリネール作、堀口大學訳の『オノレ・シュブラック滅形』をもとに、音楽作品を創ってみたいと欲したのは、自然なことでした。

「語りを伴う音楽というのは、1953年(昭和28)年にNHKで制作しました、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』や『杜子春』など、若いころからテレビなどのために劇音楽をたくさん書いて来ましたから、私としては慣れています。注意しなければならないのは、ドラマの激しい場面に、激しい曲を書く、悲しい場面に悲しい曲をつけると、ドラマの深みをなくしてしまうことです。日本の演出家には、そこをわかっていない人がたくさんいて、場面をなぞるような音楽を要求されることが多いのです。私もしばしば、演出家たちと議論をして来ました」

2003年3月30日(日)、上野の東京文化会館で行われた「今井重幸/回顧展コンサート」で、『「草迷宮」のイメージに拠る詩的断章』が初演されました。もちろん、泉鏡花の『草迷宮』が原典にありますが、今井先生ご自身が、舞台演出家としての名前、「まんじ敏幸」として詩を書かれ、バリトンによる歌と語り、童声による合唱ありの作品となったのです。詩の一節を引きましょう。

鎮守の森のてっぺんから 烏天狗が舞い下りて
赤いおべべの娘が二人 手毬(てまり)をついて 鞠(まり)ついて
ひとつとせ ふたつとせ 三っつとせ 四っつとせ
烟(けむり)のように 烟のように
昏(くら)い空へと かき消えた

当日のプログラムに、音楽評論の片山杜秀氏がまとめた、先生の言葉があります。
「ノノどのようなテキストに作曲するかとなりますが、私としてはどうしてもまず幻想的なおどろおどろしい世界をやりたい。私は演劇とのかかわりでも舞踊との関係でも、日常のリアリズムを超えたアンチ・リアリズムの世界、人間の見えない本質が闇のそこからたちあらわれてくるような超現実的な、不条理な、あるいは反近代というか土着的というか、そうしたテリトリーに関心がずっとありました」
『奇妙な-ふしぎ-な消失』、トロッタ10のための『時は静かに過ぎる』も、そのような志向のもとに作曲された音楽世界といってさしつかえないでしょう。

今井先生の回顧展コンサートは、私も拝聴させていただきました。そのライヴ録音を聴きますと、バリトンの宮本益光氏が、歌い、語っています。トロッタ10の『時は静かに過ぎる』は、バリトンの根岸一郎氏が歌い、私が語ります。なるほど、今井先生は、語りを伴う音楽に、もともと縁があったのだと、今さらながら実感しました。

歌手が歌い、語る。それができれば、役者は必要ないといえます。役者といわなくても、語り手は必要ありません。音楽に必要なのは歌手であって、歌手が語るなら、歌えない役者は必要ない。音楽の舞台では、役者は部外者です。しかし、今井先生の曲には、歌手ではなく、語り手が登場する作品があります。それが『奇妙-ふしぎ-な消失』であり、回顧展コンサートでも、舞踊のための音楽『グラナダの妖女サロメ』に、ヘロデスという人物が登場し、これには役者の有本欽隆氏が扮しました。

本音をいえば、詩と音楽をテーマにした「トロッタの会」を続けていますが、まったく疑問を抱かず、信念だけを持って舞台に立っているかというと、そうではありません。居心地の悪い思いをしています。音楽と融合した語り、詩唱を心がけながら、本当に融合できているのか、音程のない発声が、周囲から浮いていないか、常に考えます。
私の詩唱を聴いて、あるいは観て、芝居のようだという声は、しばしば聴きます。私は、芝居をしていました。しかし、今はしていません。それが答え、ひとつの態度で、芝居には違和感を持っています。芝居を、私はやめたのです。役者になりきれなかったのです。続けられなかったのですから、落伍者です。かといって、歌手であるかというと、そうではありません。歌は習っていますが、そんな人は世の中にいくらでもいます。歌えばすなわち歌手かというと、そうではありません。
私の詩唱を芝居だという声には、芝居をしていたから、その名残が感じられるのだろうと思います。音楽の新しい表現だと思っていただけないことに、無念さを感じます。『奇妙-ふしぎ-な消失』や『グラナダの妖女サロメ』に出演した役者の方々は、どんなことを感じて舞台に立ったのでしょうか。バリトン歌手・宮本益光氏は、何を思いながら、語ったのでしょう。語りに違和感を持たなかったのか。
トロッタ10では、田中修一氏の『雨の午後/蜚(ごきぶり)』で、短いながら、私は歌います。これは間違いなく、詩唱ではなく、下手であっても歌です。芝居のようだと思う人はいないでしょう。実に明確な違いがあります。語りは永久に語りであって、歌にはならないのか。私の詩唱とは、何なのか。

今井先生は、回顧展コンサートのプログラムで、こんな発言もしておられます。
「私の作品は、どうしても器楽の曲に偏ってしまっていて、そういう系統だけではなく声楽を前面に出した作品も書いてみたいとの欲求を長く持っていました。声はやはり根源的なものですから、人間の根源というか原初というか、そんな領域に興味を持つ作曲家としては、その声をきちんと扱いたいとは思い続けてはいたのです」
声は根源的なものであり、原初の領域でもある。
何となく、答えに至る手がかりが、ここにあるのではないかと思いました。

ちょっと、話がずれるようですが。
語り、朗読、詩唱と、呼び方は何でもいいのですが、歌では声がよく聴こえても、語りになると、声が聴こえない、とたんに小さな声になってしまう方がおられます。
語りと歌は、発声方法が違います。歌は、響かせれば聴こえます。響かせて、伸ばすということができます。しかし、語りは、響かせるのは工夫次第ですが、伸ばせません。歌なら、わーたーしーはー(私は)、といえますが、語りで同じことをすると、おかしな話になります。
この逆も不都合が生じまして、語りは上手なのに、歌は妙に力の入った声になって、聞き苦しい人がいます。あるいは、メロディに乗せられない、ぶつぶつ切れてなめらかなレガートにならない、といった現象も起きます。意味を伝えようとするあまり、言葉が立って、メロディは後ろに隠れてしまう場合もあります。バランスの問題ですが、これは難しいです。
歌は響けばいいので、力を入れない方がいい。語りは響かせるのが難しいので、ある程度の力は必要だと思います。それに、愛をささやくのに大きな声で発声するのは、リアルさからいえば変なので、大きな声を使いたくない気持ちはわかります。マイクという利器があるので、それを使えばいいということになります。ただし、私はマイクを使いたくありません。

語り、朗読、詩唱を始めた最初からそうです。マイクを使いたくないのは、生の声を届かせたいからです。停電になったらどうする? という笑い話をしていたこともありましたが、室内でする限り、停電になったら、演奏会そのものが成立しません。
マイクを使ってほしいお客様もいます。腹式呼吸の声は聴きたくないというアンケートの回答もありました。ポップミュージックは、全部、マイクを使っています。楽器も電気です。生の楽器でも、増幅器を通しています。芝居は、基本的にマイクを使いません。使わないはずです。しかし現実的には、ミュージカルなど、使っているのでしょう。音楽との兼ね合いがありますから。
仮にですが、ものすごく広い劇場に出演して、大音量の音楽が鳴っている場合、現実問題として、私もマイクを使うでしょう。他の人がマイクなのにひとりだけマイクなしでは逆効果です。もちろん、選べる立場なら、そもそも、そういうところに出ません。

歌と朗読の違いは、まだあります。それぞれの分野で上手な人を比べた場合、歌は繰り返して聴けますが、朗読は聴けません。歌は、例えば仕事をしながらでも気分を楽にするため、歌のCDを再生することはあっても、朗読では、ちょっと難しいと思います。やはり、内容を聴かなければいけません。落語でも内容があって笑えるわけです。声の響きを楽しもうという具合にはなりません。ベテランの噺家などになると、響きや雰囲気を楽しめるという言い方ができるでしょうが、しかし本来は、内容を伝えるものです。歌は、メロディやリズムやハーモニーを楽しめます。詩の意味は大事ですが、メロディで聴かせるものです。私が、朗読にもメロディやリズムがあるといいはっても、歌にくらべれば単調です。おもしろみが少ないのです。

マイナスの点ばかり並べてしまいました。にもかかわらず、なぜ語り、朗読というものが、古くから存在しているのか。なくならないのか。歌手が語りも歌もすればいいのに、語り手がいて、役者がいて、という状況が続いているのか。私自身について、考えようとしています。

つまるところ、歌手と語り手の違いは何か、ということになります。同じ声を使う者でありながら、何が違うのか? 詩と音楽という時、詩は、語り手であり、詠み手によって担われるものでしょう。音楽は、歌手、歌い手によって担われるものでしょう。伊福部昭氏がおっしゃっていました。音楽は、メロディとリズムとハーモニーでできている、と。

歌手は、メロディとリズムとハーモニーに生きている者で、その表現者です。語り手、詠み手は、メロディとリズムとハーモニーがなくても生きていけます。むしろ、それがあると、リアリズムから離れるという人もいるでしょう。ただ私は、詩と音楽を分けているのではなく、一緒に考えようとしています。メロディとリズムとハーモニーのある詩、詩の表現を考えようとしているのです。それならそのまま歌でいいと、決まったことをいうのではない。歌はもちろんいいのですが、自分の表現としては、その一歩か二歩手前にある詩唱を、私は考えています。それが未完の表現だといわれても、別にかまいません。歌として未完、語りとしては余ったもの。別におかしくありません。オペラは音楽ということになっていますが、演劇性が高いと思います。しかし、演劇ではありません。

演劇は完成形でしょうか。そこから音楽性は、ほとんど抜け落ちています。抜け落ちてはいけないのでしょうが、二の次というのが現状だと感じられます。最初から音楽を想定して演出される演劇が、どれだけあるでしょう。
演劇に音楽性を与えたものがミュージカルだといっていいでしょうか? 笑い話のように、役者が台詞の途中で、いきなり歌いだすんだよといいます。リアリズムからいうと変です。しかし変と思わせず、ミュージカルの舞台では、役者がいきなり歌い出し、踊り出す瞬間にこそリアリズムを感じます。オペラには、踊りはありません。バレエが取り入れられますが、歌手は、踊りません。しかしミュージカル役者は踊ります。

純粋であるものの、不足感。
純粋であろうとすることの、不自由さ。

こうしたことについて考えようとしたのではないのに、いつの間にか、このような言い方に、行き着いてしまいました。
もとに戻りましょう。今井重幸先生の『時は静かに過ぎる』について、締めくくります。
先生のお言葉です。

「今回の曲は、作品のドラマ性を意識して書きました。紀光郎さんがアポリネールの詩をもとに構成されましたが、その詩句に合うメロディをつけています。不倫の現場に踏み込まれ、追いつめられた男が壁の中に消えるという、奇想天外ですが、わかりやすい話ともいえるので、音楽もまた、そのようなメロディ、リズムになっています。作曲家とは、作品の理念や意図、演出効果を考え、また起承転結やストーリーに沿って書かなければいけません」

アポリネールの作品『獄中歌-ラ・サンテ刑務所にて』に、「時は静かに過ぎる」という一節があります。
同じく『病める秋』に、「哀れな秋よ」。
さらに『狩の角笛』には、「思い出は狩の角笛」「風のなかに音は消えてゆく」があります。
探せばまだまだあるのでしょう。いずれも、今井先生の曲に生かされています。

『時は静かに過ぎる』の練習が続いています。根岸一郎さんが歌い、赤羽佐東子さんが歌っています。楽器の方々によって、音楽の全体が見えてきました。一場のドラマを観る思いがいたします。このような曲は、あってもよかったのに、かつてトロッタにありませんでした。オペラでもない。歌曲でもない。芝居でもないミュージカルでもない。もちろん器楽曲でもない。っしかし、そのすべての要素を持っている音楽といえるかもしれません。今井重幸先生とは、純粋性という、近代の毒に冒されてしまう以前の精神をお持ちなのでしょうか。