トロッタ通信 10-4



トロッタ通信 10-4



「変奏」

■ 楽器になる

清道洋一さんは、トロッタ10に『主題と変奏、或いはBGMの効用について』を出品されます。トロッタで発表されるのは初めてです。昨年、2008年9月28日(日)、カフェ谷中ボッサ行われました、「ボッサ 声と音の会vol.4」で初演された曲です。
初演をし、トロッタ10で再演しようとしていますが、私は、この曲を完全に理解できていません。私は一個の楽器としての役割を求められているようです。私の考えよりも、私の音を、清道さんは求めているように感じます。それは私にとって、本望でもあります。考えなど捨て去りたいと思う私がいます。どんなに立派なことを考えていても、音にできなければ、舞台では通用しません。

清道さんと初めて会った時、彼は自分の作品集をCDで持って来て、『蠍座アンタレスによせる二つの舞曲』を聴かせてくれました。舞曲です。情熱的な曲でした。永遠に流れる時間の中で踊っていることを感じさせる、すばらしい曲だと思いました。抽象的にいっても意味はないのですが、進歩とか発展とか、そんなことを止めてしまった世界。そこにある場末の酒場でいつまでも踊っている男女の姿を感じさせてくれました。私はお返しに、これなら清道さんにふさわしいと考えていた『椅子のない映画館』を見せました。彼はすぐ、これを曲にさせてほしいといいました。それは、椅子のない、立ったまま観る映画館に足を運ぶ男の話です。

『椅子のない映画館』を演奏したのは、2008年6月8日(日)のトロッタ6です。この時、彼は椅子を使ったオブジェを創り、会場に置きました。彼は開演前、一生懸命になって、椅子を新聞紙で包み込んでいました。「ボッサ 声と音の会vol.4」で再演した時も、段ボール箱を覗き込むと、中に小さな椅子が見える仕掛けのオブジェを創りました。何かしないと気がすまないようです。音楽は、音としてだけあるのではないと、彼はいいたいようです。
彼の態度はストイックではありません。音以外のものを加えています。考えてみれば、私たちは音だけで生きていません。また音楽会といっても、私たちは演奏者の所作や表情を観ています。会場に足を運ぶまでにいろいろなことがありました。隣の人の息の音や気配が気になります。それらすべてを含めて音楽会の音楽なのです。ストイックな世界に、そもそも人は生きられないのです。清道さんの表現は、そのようなことを、私たちに教えてくれているようです。もちろん、これは私の受け止め方であり、彼は別なことを思っているでしょう。

私がここで書きたいのは、「変奏」ということ。「主題」が移り変わっていきます。『主題と変奏、或はBGMの効用について』という曲は、清道さんの本質かもしれません。演奏だけではない、言葉そのものが変化していきます。詩の物語も変化していきます。
清道さんとはこれまで、トロッタでは『椅子のない映画館』『ナホトカ音楽院』『蛇』『アルメイダ』の作品でご一緒してきました。こうして並べるだけで、大きなスケールを感じます。『椅子のない映画館』では椅子のオブジェを創りました。『ナホトカ音楽院』では、架空の音楽学校の風景をスライドや印刷物で見せました。『蛇』では、長くて幅の広い和紙を使い、巨大な蛇を想像させました。『アルメイダ』では、アルメイダという海の国を、美術家・小松史明さんの手を借りて絵にし、会場で配布しました。そうしたことが、「変奏」かもしれません。何かの「主題」があって、彼はそれを「変奏」させていきたいのかもしれません。

彼に身をまかせていれば、私自身が変わっていきます。私も知らなかった私が姿を現します。

■ 主題と変奏

それ自体はおもしろいことと前提した上で書きます。トロッタ9の『アルメイダ』は、まだ私の中で解決されていません。私の詩から、あまりにかけ離れていましたから。演奏された曲に使われた私の言葉はわずかです。当日の印刷物を取り出し、改めて確認しましたが、清道さんの言葉の分量が、確かにまさっていました。私の詩が長過ぎたのでしょうか。

もともと、清道さんに頼まれたのは、架空のCMのための詩を書いてほしいということでした。短い曲をつなげて組曲にしたいというのです。考えましたが、私にCMは無理だと思いました。そして、架空の国の話にしようと、『アルメイダ』を書いたのです。亡命詩人の手記、という形です。しかし清道さんは、ドードー鳥、オーロックス、リョコウバトといった、絶滅動物を登場させ、彼らの述懐を交えて物語を進めます。さらに、亡命詩人に常に話しかける男優を登場させます。内面に沈潜しがちな詩人に問いかけ、詩人の心をかきまぜて、世界を撹拌させようとします。絶滅動物も、詩人に問いかける男も、私の詩には存在しません。どうして、清道さんは、私の詩をそこまで変えたのか?

彼の本質に、「変奏」があるのだと思います。彼は変奏者なのです。主題は主題として明らかなのだから、今さら再現しても仕方ないということか。あるいは、主題から離れた表現こそ、つまり『アルメイダ』なら、私の詩を受けて自分の音楽を奏でることこそ、表現者としての役割だと思っているのかもしれません。では、私は、彼の「変奏」をさらに「変奏」する詩唱者ということになります。

『主題と変奏、或いはBGMの効用について』です。「12月9日水曜日 休暇を取って動物園へ行く」で始まる、ある男の日記が詠まれますが、これは清道さんの文章です。清道さんの、実際の日記が使われているのかもしれません。「昨夜から降り出した雨は 乾いた東京の空気に潤いを与えて 心地よい」おそらく、清道さん、そのものでしょう。「雨の動物園は 平日ということもあって とても静かで空いていた ゆっくりと動物を観察する」清道さんの姿が見えてきます。「人という檻があったら 誰が入るのがふさわしいかについて考え 数人を檻へ入れた」清道さんらしい、シニカルな視点。失礼があったらあやまります。「昼を過ぎたあたりから みぞれへと変わった雨は 夕方には本降りの雪となって積もる」雨、みぞれ、雪。灰色の東京の空の下を、12月9日水曜日、清道さんは帰っていったのでしょう。「雪見酒 でも酒がない」清道さんの姿がくっきりします。「こんな大雪の中 酒 買いにゆく」またあやまりますが、他人に対してだけではなく、自分自身に対しても、彼はシニカルでしょうか。

これだけの文章が、第一変奏、第二変奏、第三変奏、第四変奏まで変化し、最終変奏では、まったく違った言葉となって現れ、がらりと変わった演奏を聴くことになります。
第一変奏「じつにがゆ ここよか すいのうび ちさめのこ ゆき」これを、主題と同じように詠みます。
第二変奏「12月9日水曜日 休暇を取って動物園へ行く」これを、主題と異なる詠み方で詠みます。
第三変奏「のつにぐゅ ここよか ざいじかび ちさゅのこ ゆき」これまでにない詠み方で詠みます。
第四変奏「くゆにいか けさ かなのきゆおおな んこい」何だかわかりません。わからないことを、私も音楽もリズム主体となり、発声し、演奏します。
最終変奏。私が書いた「雪鼠」という詩を、ナレーションと共に詠みます。しかし始まりは、「ーーうにーー ここーかー ーいーーび ーさーのーゆきー ーーうーーとっー ーうぷーえんー ゆー」という、意味のない言葉です。意味のない言葉??。藤枝守氏の『響きの生態系 ディープ・リスニングのために』が紹介した、ネイティブ・アメリカン、ナバホの言葉を思い出します。具体的な意味はありません。意味がない言葉は『魔法のコトバ』ともいわれ、呪術的でマジカルな力を持つと考えられました。言葉に意味や概念が加わることで、言葉は解釈や理解の道具となり、霊的な作用や呪術的なパワーが失われてしまった……。

解釈や理解の道具ではない言葉を、私は発します。意味はもちろんありません。意味がなくなってしまうほどの変奏です。しかし、この変奏は、清道さんの中では規則性があります。聴く人にはわからないと思います。彼は、決してでたらめをしたくないのでしょう。彼が「変奏」にこだわるなら、私もまた、「ボッサ 声と音の会vol.4」とはまったく違った詠み方をしてもいいでしょうか?

清道洋一さんは、劇団「萬國四季教會」で、作曲を担当しています。彼と演劇論を交わしたことはありません。しかし、トロッタを通じて、演劇に通じる音楽論、逆に、音楽に通じる演劇論は話し合っている気がします。話しはしていなくても、実際の舞台を通して感じあっていると思います。探りあっている段階かもしれません。また結論など、何年つきあってもなかなか出ないと思います。だとしたら、舞台を通じた交感こそが、望ましいといえるでしょう。

演劇については、私も考えることがあります。私は、高校生のころから芝居をしていました。大学時代を過ぎてからも何年か、芝居を続けていました。それが終熄したのは、後に『伊福部昭 音楽家の誕生』となる原稿を書き始めたころです。完全に重なる訳ではありませんが、書くことに向かう過程で、舞台から降りました。そして現在、トロッタを通じて、再び舞台に上がるようになりました。一度降りた人間が、また上がったということ。そこでたくさんの人と出会いましたが、そのうちのひとりが、音楽で芝居に関わっています、清道洋一さんです。

何でしょうか? 芝居とか。ここに詩と音楽があると思うのは、私ひとりではないはずです。詩と音楽を融け合わせたものが芝居だといっても間違いではないと思います。それなら、舞踊も美術も融け合わせなければいけないでしょう。その通りです。ただ、現代の多くの芝居に対する私の不満は、音楽が物足りないということ。役者の演技にオリジナリティを求めるのに、なぜ音楽になると、すでにあるものを使うことが多いのでしょう? そのような演出家の態度こそ、問題なのではないでしょうか。彼らは、自分の記憶を舞台で再現しているに過ぎません。舞台の創造者としては失格です。清道さんと「萬國四季教會」は、その不満を払拭してくれます。満足、とまではいかないにせよ、作曲家によって、オリジナルな音楽を創ろうとしている点は評価されていいと思います。忘れてはならないのは、戯曲そのものも、オリジナルなのでした。決して、世の名作の再生産に明け暮れているわけではありません。劇作家のひとりが、トロッタ10に参加される田中隆司さん、芝居の世界でのお名前は、響リュウさんです。

もちろん、オリジナルだけにこだわることはありません。過去に生まれた名作を取り上げてもいいでしょう。例えばシェイクスピアを上演して、そこに現代の問題を象徴させられるなら。音楽にも同じことがいえます。トロッタが、現代の作曲家の作品にこだわる理由は、そこにあります。クラシック音楽を演奏するのもけっこうですが、現代の音楽を創りたいのです。でなければ、作品を世に問えないまま、作曲家という存在は滅んでしまいます。

人にはそれぞれ、他人と自分との間に共通点を持っています。私と誰かが似ているのではありません。私と誰かの何かが似ているのです。まったく似るところのない人、似ない点のない人は、ほとんどいないのではないでしょうか?
清道洋一さん。
私と清道さんは、少なからず、いくつかの点が似ています。まったく似ていない点もありますが、似ています。私の『椅子のない映画館』を、すぐおもしろいといってくれました。『ナホトカ音楽院』もそうでした。『光師』を始め、いつか音楽にしますといってくれている詩がたくさんあります。それは『アルメイダ』を始め、おおむね、私が物語性を感じる詩です。
清道洋一さん。
『蛇』を音楽にしていただいてありがとうございました。あの詩は、はっきりと、音楽にされることを期待して書いた詩でした。ソロとコーラスを、詩の段階ですでに分けて書いています。そのような形の詩は、おそらく、その後は書いていません。『蛇』に注目してくださいまして、感謝します。音楽になればとは思いましたが、どのようになるのがいいのか、私の期待とまったく違う方向で作曲していただきましたこと、うれしく思います。トロッタ8で、好評でした。
清道洋一さん。
人にあてて詩を書いているわけではありませんが、この詩は田中修一さんにふさわしい、橘川琢さんにふさわしい、酒井健吉さんにふさわしい、さらに清道洋一さんにふさわしいと、トロッタを何度か一緒に創ってきた人の傾向を、感じることがあります。どんなところが、とは明確にいえません。清道さんの場合なら、物語性を好む点、虚構性を好む点、などでしょうか。
清道洋一さん。
『風乙女』はおもしろかったですね。現代作曲家グループ蒼の舞台に立たせていただきまして、ありがとうございます。意味のない言葉を、私は発声しました。清道さんのおかげです。「風乙女」というテーマで詩を書いてほしいといわれて書きました。風は耳に聴こえます。風の音に意味はありません。しかし、感じるものがあります。風を、通常のひゅーとか、ごおーではない言葉で表現できました。あのようなことを、もっとしてみたいと思います。意味に縛られるのはつくづく嫌です。意味は何の意味もない。そう言い切ってしまいたい私がいます。詩と音楽で、意味のない世界に遊びたいのです。