トロッタ通信 10-3 「詩唱ということ」 ■ 詩唱と朗読 毎月第三水曜日、西荻窪にありますライヴハウス、奇聞屋で朗読をしています。誰もが参加していい舞台です。この形式をオープンマイクといいますが、都内のあちこちに、またいろいろな機会に、オープンマイクの朗読会があります。私にとって、奇聞屋は大切な場所です。大袈裟にいえば、舞台でどう振る舞うかを、奇聞屋で確認しています。上手な朗読を聴かせようとはまったく思っていません。もとより上手ではないのです。そこで生きようと思っています。初めは客席にいて、舞台に出て、朗読をて、また客席に帰る。人生の中の、この短い時間を、やはり人生として、生きられればいいと思っています。生きて帰って来られればいいと思います。トロッタも同じです。 ばかばかしい話です。写真うつりが悪いと嘆きはしますが、その悪い顔と姿を、他人は皆さん、見ているわけです。今更嘆くことはないと思います。もちろん、どう見られるかを意識するのは大切な話です。美しい振る舞いは心がけなければいけないでしょうが、それよりも、舞台でも日常でも、正直に生きることの方が、私には大事です。上手にできなければできないでいいと思っています。 ところで、私は自分の表現を詩唱といっています。一般には朗読といいますし、トロッタなどでも初めは朗読といっていましたが、ある時、音楽評論の西耕一さんが詩唱という表現をされたので、それを使わせていただいています。 私は、朗読ではなく、歌いたいと思っています。「うたう」という言葉には、歌う、唄う、詠う、謳う、謡うという具合に、いろいろな表記があります。どれも「うたう」で、そうである以上、根本の意味は同じだと思います。基本は、節をつけて発声することでしょう。朗読だと節はいりません。通常、これから詩を読みます、という場合は朗読でしょう。詩唱の場合は、私は基本的に、楽器と一緒に行うことを意識し、全体として音楽だと受け止めていただきたい。私を一人だけ取り出せば、朗読と変わらないかもしれませんが、どんな交響曲でもヴァイオリンだけ取り出しては考えないので、詩唱の舞台でも、総合的な表現として受け取っていただければと思います。また私も、そのように心がけています。 朗読に節はいらないと書きましたが、その人だけの節はあります。もしかすると、節が目立たないように教える朗読の先生がいるかもしれませんが、私は節を意識しています。節を際立たせようというのではなく、それだと悪く目立ってしまいますから逆効果で、詩が生きる節を探っているということです。 また、リズムもあります。句読点をどこで打つかは、大きな問題です。小説を朗読する時も、印刷された句読点のとおりに読むことはありません。句読点は声に出さないのですから、好きなところで切って、止まって、いいわけです。といっていますが、作者の呼吸を無視したいわけではありません。作者に忠実でありたいと、私は常に思っています。 詩を意識して書き始めたころ、ラップ詩という言葉を使っていました。自分に言い聞かせるために使ったことで、今は、いいません。いわなくてもそうなのですから。ラップという、もともとの意味からは離れています。私は繰り返しを多用したり、韻を踏んだりしません。喋るように歌うという、その点を意識したのです。また、言葉と音楽の関係も考えていました。初めから歌として完成されていると、あとはもう歌うか聴くかしかありませんが、ラップには、完成されていない自由さと可能性を感じたのです。喋ることが音楽になる。新鮮でした。もちろん、ラップをしようとする彼らは、完成度を探っていると思います。その努力はたいへんなものだと思います。私は私の完成度、可能性を探りたいと思い、ラップという言葉は使わなくていいと思ったのです。 歌うな、語れという、小山内薫の言葉を覚えています。実は、その前後は知りません。リアリズムを追究した言葉だと受け取っていますが、違うでしょうか。朗読だと、歌うな、語れという言葉が当てはまりそうです。詩唱は歌えと、私は思っています。歌って、語れ、でしょうか。 ■ 花の三部作 橘川琢さんの『死の花』は、『花の記憶』から『祝いの花』へと続く、彼にとっての花三部作、その二曲目にあたります。 橘川さんの曲は、他の方と比べて良い悪いをいうのではなく、ほとんど詩の改変がありません。『冷たいくちづけ』や『うつろい』『恋歌』『異人の花』『花骸-はなむくろ-』など、彼との共同作業はたくさんありますが、常に、私の詩に忠実に作曲していただいています。 唯一、大きな違いだと思ったのは、2007年5月27日(日)、彼が第三回公演で初めてトロッタに参加した時の曲『時の岬/雨のぬくもり 木部与巴仁「夜」・橘川琢「幻灯機」の詩に依る』でした。私の詩「夜」を「時の岬」に改題し、この曲のための書かれた橘川さんの詩「幻灯機」を「雨のぬくもり」にして、一曲にまとめたのです。彼がなぜ新たな詩を書いたのか、知らないままです。詩を書くことで、私の詩と、橘川さんなりに取り組もうと思ったのでしょうか。自分の側に、強く引きつけようとしたということ。もちろん、橘川さんも詩を書き、一曲にして提出したいと思ったのかもしれません。 トロッタに参加するに当たって、橘川さんの関心が、次の言葉からうかがえます。雑誌「洪水」第一号で、私、橘川さん、田中修一さんによる鼎談が行われました。橘川さんの発言です。 「これはトロッタの会に対する私のスタンスにも関わることですけど、通常音楽会という形で詩と音楽の融合が目的とされるとき、それぞれが対等に主張するということは意外と少なくて、最終的には詩もしくは音楽どちらかの強さに収斂されてしまう傾向があると思います。トロッタの会のお誘いを受けたとき、詩と音楽とがほとんど対等な形で会の時間の中で存在してもいいんだという、そのことがとても面白かったんです。ひとつの芸術の分野だけで時間を作るのではなくていろんな芸術の分野が同時進行的にある面白い場というか空間を作り上げているという感覚です」 トロッタ10の新曲、『死の花』がどのようなものになるかは、まだわかりません。ただ橘川さんは、『死の花』の作曲が、たいへん難しいものになるだろうと、ずっと以前から口にしていました。私もそう思いました。 それは、橘川氏にとって大きな転換になったのではと思われる、『花の記憶』が、あまりにも完成度の高い曲であり、演奏になったからです。 『花の記憶』は、2008年10月20日(月)、日本音楽舞踊会議 作曲部会公演にて初演されました。そして再演は、同じ年の12月6日(日)、第7回トロッタの会。三演は、2009年8月2日(日)、名古屋のしらかわホールで行われた「名フィルの日 2009」でした。 初演以来、少しずつ形を変えて、3度、演奏されています。演奏するたびに、好評をもって迎えられています。とりわけ、花いけの上野雄次さんの存在は、他の方の曲との違いを際立たせています。音楽の進行に伴って花をいける。これが音楽の要素になっているのですから。 『死の花』を作曲する時は、いっそ楽器を少なくし、尺八と何かだけにしようかなどと考えておられました。思い切ったことをしないと、『花の記憶』との違いが浮かび上がらない、というのです。 しかし、「洪水」の発言にもありましたが、「ひとつの芸術の分野だけで時間を作るのではなくていろんな芸術の分野が同時進行的にある面白い場というか空間を作り上げ」るため、私の詩はもちろん、上野さんの花いけをも音楽と考えて、彼は作曲をしていく宿命にあると思います。個展を開いた時には、扇田克也さんのガラス造形作品を、一曲の中に生かしました。扇田さんの展覧会では、すでに二度、自分の曲を発表しています。 橘川さんは、以前、曲に題をつける時は、図書館に一日こもり、片端から本を開いて、言葉を探していったといいます。私と共同作業をするようになってから、その必要はなくなっているはずです。 橘川さんの方法に、間違いはありません。人にはそれぞれの方法があります。私は、ほとんど図書館に行きませんので、橘川さんのようなことはしませんが、彼なりに言葉との出会いを求める、飽くなき姿勢といえます。 『花の記憶』を完成させ、初演を終えました。すぐ、トロッタ7で再演しました。その過程で、『死の花』を書き、さらに『祝いの花』を書いて、これを「花の三部作」とする構想を、橘川さんと決定しました。『花の記憶』『死の花』と、死にまつわる印象が強いので、最後の曲が明るい内容でと話し合ったことも覚えています。ただい、死についての考えは暗いものだけではないことを、後で記します。 『死の花』の第二連は、このようになっています。 食べ尽くされて 殻だけになった ごみむしを活ける 花の形として 破れてしまった翅 ゆがんだ脚 かしげた首で物思いにふけっている この花をあなたたちへ 誰が食べたの? 命を望んだほどの愛 舌鼓を聴きながら 意識は遠去かる 舌なめずりに身をまかせた これきりなのだからと 朝、机の上に、ひからびて死んだ、虫の死骸がありました。ごみむしでした。性別は不明ですが、この虫はどうして死んだのだろうと思いました。死んだ形から、生けられた花を想像しました。 私にとって、死は、哀しいだけのものではありません。美しいものかもしれず、崇高なものかもしれません。実際に肉親が死ねば、話は別でしょう。しかし、机の上で死んだごみむしに対し、感情はありません。純粋に、死の形として見るだけです。よくここで死んだと、いってあげたい思いさえします。 「朝起きると ふとんの上で 蝿が死んでいた」 こんな始まりの、短い詩を書いたことがあります。もともとは、ビデオ作品のナレーションに書いた言葉でした。実際に、朝起きると、布団の真っ白なシーツの上で、真っ黒な蝿が死んでいたのです。私は蝿の死骸と寝ていたのです。よく死んだと思いました。愛しくさえあったのです。 橘川さんが、『死の花』をどのような曲にするかはわかりませんが、私は悲劇的な死を想定しているのではないことは、申し上げておきたいと思います。橘川氏は、私の詩に忠実に曲を書いてくださると書きました。それでも、解釈の違いはあると思います。詩の言葉を改変しないだけが、忠実の証ではありません。ここから先はもう、詩人と作曲家の違いです。個性が、解釈しているのですから。 『死の花』の第四連、最後の詩です。 縒り上げた糸に似る ごみむしの角 つや光りした胴体に 世界が映る 静寂 生と死の境界はわずか 沈黙 聴こうとして聴かず ただじっと 花になったごみむしが 私を見ている いつかはおまえを 花にしたい おまえの形を見てみたい いいだろう 六脚の主に この身を捧ぐ 覚悟はできている 「ごみむし」という名は、もちろん人がつけたものであり、虫には何の関係もありません。印象のよくない名前だが、虫にすれば、放っておいてほしいというところでしょう。しかし、いっそ最悪の名前の方が、気取りがなくてすがすがしい気さえします。落ちてしまえば、その次元で開き直れます。私は「ごみむし」に、何の悪感情も持っていません。 トロッタ10に、花いけの上野雄次さんは出演しません。毎回のご出演には無理があるので、今回はお休みです。『花の記憶』も、初めは、上野さんの出演はありませんでした。途中でお話しをして、出ていただくことになったのです。今回は逆です。上野さんが出演していい曲ですが、花いけは、ない。詩唱を含め、音だけで作らなければなりません。 上野雄次さんが常に問題にしている一つに、聴覚と視覚の問題があります。音楽というなら、本来は音だけで表現されるものですが、そこに資格の要素が加わった場合、添え物になってしまうのではないか。あるいは聴覚的感興をゆがめる、余分な要素となってしまうのではないか。 『死の花』の第三連。 花は血 飛沫となって地面に散る 私はそれを すくいあげて活ける 手を血に染め 命で濡らしながら 終わりも知らず活けている これはまったく、上野雄次さんが花を生けている姿です。 『花の記憶』を書いている最中は意識しなかったのですが、この詩は上野雄次の物語だと思いました。舞台に立つ時、私は上野さんになりきって詩唱しよう、彼になりきって言葉で花を生けようと思います。もちろん、上野さんと私は違いますから、なりきるということはナンセンスです。心構え、ということでしょうか。 ですから、上野さんが『死の花』に登場する必然性は、じゅうぶんにありました。しかし、トロッタ10ではお出になりません。いずれ、再演の時にと思っています。 上野さんは、視覚と聴覚の問題について、もう少し違ったことをいっているのかもしれません。私の受け取り方それ自体がゆがんでいるかもしれませんので、その点は追究しないことにします。 私の態度は、橘川さんの言葉にあったように、「ひとつの芸術の分野だけで時間を作るのではなくていろんな芸術の分野が同時進行的にある面白い場というか空間を作り上げているという感覚」を、大切にしたいということです。ただ、何があってもいいわけではなく、舞踊や演劇の要素は、どう共同作業していっていいかわかりませんので、今すぐの共同作業は、考えられません。そういいながら、私の詩唱に演劇性を感じるお客様が多いのは、私の意識していないことで、芝居をかつてしていましたから、出自はぬぐえないものだと実感しています。いずれにせよ、上野さんと一緒に舞台を創りたいというのは、私なりの直感に支えられた願いなのです。 橘川さんと初めて話をした時。新宿のデパートにある喫茶店でした。その場で、資料として持参した記録DVDをコンピュータで再生し、観ていただきました。曲は、名古屋で演奏しました、酒井健吉さんの『天の川』でした。彼はすぐ、これはおもしろい、こういうことをしたかったんですと、言下に断言しました。橘川さんの希望に沿った舞台が、成功不成功はあれ、これまでずっと創られてきたと思います。橘川さんと一緒にできて、詩と音楽の関係は、極めて密接になりました。「詩歌曲」と、橘川さんは、ご自身の詩と音楽による表現を呼んでおられます。酒井健吉さんは、「室内楽劇」と呼んでおられます。私は「詩唱」と呼びます。 死にに行く者が見るという 彼岸の花 さっきも見てきた 駅前で 泥になってベンチで眠る 男たちの周りに花が咲いていた ここはもう彼岸かもしれない 『死の花』の第一連です。 阿佐ケ谷駅前の風景を描き、花につなげました。私の詩は常に、どこにでもある、日常の風景から始めたいと思っています。 トロッタ10の二日後、12月7日(月)には、橘川さんは、やはり私の詩による詩歌曲『冬の鳥』を初演します。彼が所属する、日本音楽舞踊会議の作曲部会公演です。どのような曲になるか、楽しみです。 |